はるさんとはるさんの彼のはなし

 

世界は何であるか。その答えを出せなかった世の哲学者達に彼のソクラテスは言った。私達は“わからない”ということが“わかっている”、と。そして続ける。人間は賢いと。

それを国中の民に説いて回り続けたソクラテスはAC.399年、死刑となる。

たった今の講義で教授が語ったソクラテスを、結局わからないじゃないかと思ったわたしはほんとに失礼だ。

 

 

「はるさん」

顔をあげる。テーブルの向かいに立った友人が呼びかけていた。気付かなかった事に内心驚く。なに?と返すと、それ、と机の端を指差された。

「はるさんの携帯、光ってるよ」

気付かなかった受信ランプを伝える友人は微笑ましそうに「みずいろ」と付け足した。

「あー、はいはい」

「メールでしょ?見ないの?」

「後でいい」

やや投げやり気味にそう返して、手元のレジュメに視線を戻した。黙々とシャーペンを動かして黒の面積を広げていく。三限の始まった大学ラウンジは静かで筆音が目立った。向かいの友人が椅子に座る音がして、また「はるさん」と呼ばれる。

「なに?」

「喧嘩?」

人の感情には敏い友人だ。心配を滲ませた表情でそっと訪ねられて、投げやりに返せなくなる。こいつのことだから、その表情は作成されたものかもしれないが。

溜め息を吐いて、椅子の上で体を起こした。背もたれに寄りかかって友人から視線を外した。もうひとつ、溜め息。

してない、とすぐに言えなかったのは何故か。自分達が喧嘩をしているのが事実だからだろうか。そもそもあれは喧嘩なのだろうか。よく理解できない。

歩いていたら急に手を取られた。手を繋いだと理解した瞬間思わず手を離した。あいつの驚いた表情が見えたと思ったら、一瞬傷付いた顔をして、そのまま走って行ってしまった。わたしはただ、揺れる長い髪を追えずに眺めていた。

つまり。

「・・・わからない」

よくわからないのだ。

 

友人と分かれて出た四限ももう残す所五分になった。板書が多くて利き手の片側が黒ずんでいる。疲れた指を伸ばしてから、いつもの癖で携帯を手にとった。

開いた画面に表示された新着メールのアイコンを見て手が止まる。一件の新着が誰からなのか、ランプの色で分かりきっていた。なんでこの色にしたんだ。あいつの髪の色だからだ。分かりやすいからってこれにしたんだ。だからこの色だ。そんなこと分かってる。

自分が苛々しているのか怒っているのか分からない。悲しいのが寂しいのかも分からない。めんどくさいのか、呆れたのか。ただ、落ち着かない。それだけは分かった。

終業の鐘が鳴った。ぞろぞろと学生が教室から散っていく中、メールを開かないままで自分も続く。手にそのまま携帯を握り、重っ苦しい鞄を背負って教室棟を出る。帰る為に駅へと向かった。

ホームに備え付けられた時計が、七分後に電車が来ることを示している。乗車口の前で並ぶ。周りを静かに伺ってから、携帯を開いた。ぱちんと液晶が開くそのままの勢いで、押しなれたメールボックスを開く。一人しかグループ分けされてないそのフォルダに1件の表示があった。開いて、目を眇める様に文面を追った。

 

急に握って悪かった。

 

本日三度目の溜め息を吐く。眦が垂れた気がした。

打ち慣れた携帯で一分かからず返信を打つ。

 

今度するときは一言かけて。

 

送信の完了を見届けて、ぱたりと液晶を閉じた。遠くて遮断機の音がして、すぐに電車が来た。

目の前で止まった電車が空気の抜けるような音を出して乗車口を開く。一歩で肌寒い屋外から暖房の付いた屋内へ移動した。空き席を探して腰を掛けた所で、再び光る水色のランプ。

 

約束する。

 

なるほど。結局二人とも照れ屋さんという訳である。

「わたし賢いわ」

 

今年は手袋やめてみようか。