大人になる

 

音も立てずに目の前から世界が消えた。黒塗りの視界に怯みながら耳をそば立てる。階段の下から母親が叫んでいる。洋介ぇ無事ぃ?と間延びした大声だ。

 

「大丈夫だよー」

「停電かしらぁ」

「隣も消えてるから多分地区停電だと思うよー」

 

困ったわぁと遠ざかる音を確かめてから、ベッドまでそろそろと移動する。寝具の端が膝にあたるのを感じて、ゆっくりと腰掛けた。首を回して左右を確かめるが、外も中もまっくらだ。心臓が縮んだ気分に、思わず息を吐いた。

暗闇に浮かぶ網膜の残像に気を向け始めた時だった。自分以外誰もいない筈の暗闇の中からひとつ、「なにをみているの」そんな声が聴こ、えた?気が、して。

え?

 

「だれ!?」

 

思わず叫んで立ち上がる。見えないと解っているのに、目を見開いて周囲を探った。やはり見えない、けど、いま、確かに聴こえた!

 

「だれだ!?」

「わたし?」

「おまえ!!」

 

優しげな声色がやけに不気味に感じる。姿が見えないから何ともいえないけど、たぶん女性だ。ゆるやかな口調、聞き覚えがまるでない。

 

「わたしはやみよ。おひさしぶり」

「やみ!?」

「そうやみ。いま、あなたの、めのまえにいる、やみ」

「目の前!?えっ!?えっ、これ!?この黒いの!?」

「そうそれ」

「これか!!」

 

思わず目の前の暗闇を両手で掴もうとする。すかすかと空を切る両手をばたばたと動かし続けていると、目の前からくすくすと笑い声が聴こえた。

 

「つかまんないわよ、そんなんじゃ」

「やっぱりか!」

「ひさびさにあってもやっぱりばかねぇ」

「ばかって言うな!」

「ひさしぶりようすけ」

「確かに俺は洋介ですが、初めましての間違いでは!?」

「あら」

 

やっぱり覚えてないのねぇ、と気にした風でもなく闇が言った。久しぶりということは、以前に合った事があるということだ。しかし、

 

「覚えてない」

「いいのよ」

 

みんなわすれるわ。そういって闇はまたくすくすと笑う。

 

「ちいさいころはみんなわたしにきがつくのよ。まっくらさんがきた、くらーいくらーいがきたとさわぐわ。たいていのこはないていやがるの。けれどそうじゃないこもまれにいる。あなたがそうだった」

「俺?」

「くらーいくらいといってわらっていたわ。ひるまでもわたしをよぼうとして、へやじゅうのでんきをけしていたと、きいたことがあるわ。よるはちいさいでんきもつけずにねむっていたのよ」

「あ!」

 

覚えてる。そうだ小さい頃は、電気を付けずに寝るのが好きだった。母親に危ないからと咎められるまでは、豆電球も付けずに夜を過ごしてた。今では逆に明かりが無いと不安になって寝られないが、確かに昔は、俺は。

 

「暗いの好きだった」

「ええ」

「本を読む時も電気付けなくて、よく母さんに怒られてたんだ!あんなに好きだったのに、何で忘れてたんだろ…」

「そういうものよ」

「俺今じゃ明かりが無いと寝らんないや…」

「そういうものよ」

 

停電が起こってから、自分が怖々と動いていたのを闇は見ていたんだろうか。昔自分を好きだった子供が、今自分を恐れているのは、

 

「悲しくない?」

 

訊くと一言、それでいいのよと闇は返した。

それは一つの成長なのよ、と。

その次の一瞬で、目の前に世界が戻ってきた。

 

「あ」

 

停電が直ったのだろうと、ベッド脇に突っ立ったまま思う。目が痛くて、やけに壁がうるさかった。瞬きを繰り返す。気付くと、周りにあった優しい声はもうしない。明るくなった部屋がやけに広かった。

 

「洋介ぇ?」

「あ、なにー?」

 

大丈夫かと再び問う母親に是を返す為に部屋のドアを開けた。お互いの無事を確認して、閉める。部屋を振り返って、一息吐く。一息吐いて、部屋の電気のスイッチに指をかけた。

パチリと軽い音を立てて再び部屋が闇に沈む。3秒待ってから、声をかけた。「やみ?」

何も返らないままたっぷり1分待って、部屋の明かりを付けた。パチリ。自分以外何もいない部屋が戻った。

 

 

***

 

 

暖かい風呂を出て、髪がまだ少し湿気ったままでベッドへ寝転ぶ。いつも通りの眠気に、髪を乾かすのを諦めた。ベッド脇の机の上をまさぐって、電気のリモコンを掴む。慣れた手つきで豆電球のスイッチを押した。

ぼんやりとオレンジの明かりを部屋が纏う。布団を首まで被り、横を向いて体勢を整える。目を閉じて、世界が闇になる。ふと、目を開けた。

少しだけドキドキと早い心臓に気づかないまま布団から手を伸ばし、もう一度リモコンを掴む。ほとんど使わない一番端のスイッチを探して、確かめる様に二度なぞった。そっと、押す。

ピ、と小さな音を立てて世界が闇に沈んだ。目を開けても閉じても、ただ闇だ。仕上げをするように、ゆっくりと目を閉じる。

 

「おやすみ」

 

 

 

 

 

リベラバビロン

 

切り立つ繁華街 低俗な美徳

簡素な未来像に原子力マーク

「病気だ、狂気だ」騒ぎ立てる雑踏

不都合纏め洗いざらい麻酔

 

権力者貪る 根刮ぎ奪ってく

街娼に名誉に硬貨に喰らい

毎夜毎夜 首くくり 落下

目もくれず利己 自尊自尊

 

群衆は耽美ジャンキー幻想に

心奪われ乱用症

田園に鉄塔が最後に見た風景

目を凝らせど、ただ目を凝らせど

嗚呼、お前の劣等狡猾強欲

ホルマリンに浸かった心臓

厭人病に握られて

 

連番連鎖 ドライ、ツヴァイ

細胞贋造ギャングスタに

粘性サライヴァ ギャンブル賭博

真っ平らなこの世界を騙って

人間を謳歌した

 

墜落した飛行艇 プライド売っ払って

恨んだり妬んだり どいつの所為だ?

これが真実 嘘吐き縛って

快楽民族に退屈な現実性

 

酔って白痴 欠如した想像

その中指は少女の愛さ

「きっといつまでも満たされないなんて

わかってるって、もう死んでもいい?」

 

そんな喝采 都合がいい

愛想尽かしたムービースターは

汚れてしまったことを嫌った

塗り替えられない過去を嫌った

明日がやってくる

 

流れ流れる人の海

腹這いでねだるお面屋

鐘の音で泣き止む赤子

その手に抱かれた未来を汚すな

 

愛されたいというこの街の願いは

今、遠くの方で静かに息を止め

約束した少し先の未来に裏切られ

海の底の底まで沈む 沈む

太陽がない

 

熱帯夜 希望もない

雑居ビルロックスターも

救われない戦後の偽善者

帰路の行方に心中抱え

四度目のサヨナラも消えた

 

連番連鎖 ドライ、ツヴァイ

細胞贋造ギャングスタに

粘性サライヴァ ギャンブル賭博

 

「もう生まれ変わることはできないね、

それじゃあ、またいつか」

 

 

 

潜水艦トロイメライ

 

深度、段違いに潜りきった地図にない底に

コーデュロイの海月、無色透明の寄生虫

気体バルーン纏った潜水艦、進め

サーチライト照らせ照らせ 岩窟の深奥層

 

昼も夜も鉄の中の闇夜 パイプ管の振動

唯一の手記だけを頼りに沈もう

使い古された合図なんて必要ない

重油の匂いに塗れ降下を乱すな

 

水圧も静寂も目下アンダーゴウ

さあ文明に隠された真実論争

眼前の浩々たる海底都市を・・・

 

そこに愛はあった?誓いはあった?

どこかで報われた?

日照りも、夜空も、生命も、

吸い取られた歴史の傷跡

明日があって、家庭があって、未来に包まれて

もうそんな音もすっかり止んだ

水で満ちても、深い水底で虹は架からないの

 

栄光の対価 禁制文明 落下

行き過ぎた動力源の濫用 暴走脱法

幻想の買い手 権力者逃げ去って

黒い塊は空白に成り済ました

 

幸せそうなネガフィルムの目

指輪と髪飾り 安息の地

終幕を綴ったタイプライター

鳴らなくなった枯淡の鐘

 

蒙昧な生活も紺碧に染まった

潜望鏡で見やった生態の退化

人は何処へ行ってしまったのだろう

 

「帰りを待ったどんな言葉も

母も子も夢も、愛の蜃気楼

明日を見せてと祈りました」

朽ちた木の壁に彫り刻まれた

諦めきれない最後の叫び

「向こうで先に待っています」

 

でも命はあった

崩れた街は眩しく包まれた

瓦礫や緑の家から

夜光虫たちが溢れて弾けた

儚く散った 麗らかだった

すべてを確かめた

想像を超えた、時代を超えた

幾万里深い底に残された想いは

仄かな声をあげた

そして、また、長く眠ってしまう

 

栄光の退化 禁制文明 落下

行き過ぎた動力源の濫用 暴走脱法

幻想の買い手 権力者逃げ去って

黒い塊は空白に成り済ました

 

海面に帰った潜水艦は嘆いた

消された文明は確かにそこに在った

始まりのようで終わるような海だ

そして誰からも愛されなくなった街だ

 

 

 

欲望は。

僕の欲望は、ごはんをもう一杯食べたいと思うこと。カロリーの取り過ぎだと分かっていても、夜遅くだと知っていても、白くてもちもちの米を、もう少し食べたいと思うこと。

眠り続けたいと思うことも僕の欲望。目覚ましのアラームを止めた時の選択で、1コマの授業と睡眠を天秤にかけること。あと5分の小さい欲望に、とにかく僕は弱い。

通学電車での欲望は、運に左右される。ラッシュに巻き込まれたら、絶望的だ。お年寄りや妊婦の存在も影響する。慎重に、誰の非難も買わない様に、そっと一席を確保すること。

欲望はまだある。人気の無い道の自動販売機のポケットにある。思わず入れる指がそれだ。いたずらに金属が指に触れたら、欲望のサイクルが始まる。財布…財布…。

お人形のスカートの中も、ほんのわずかな量の多いジュースのコップも、スーパーのビニール袋も、全部欲望だ。僕の欲する心。

それはとてもありふれていて、抗いがたくて、辛い。そして、ちょっといけないことである。

 

 

 

映画

 

観たもの。

・書道ガールズ

るろうに剣心

探偵はBARにいる

ツレがうつになりまして。

マルタのやさしい刺繍

・鉄コン筋クリート

グーグーだって猫である

ジョゼと虎と魚たち

メゾン・ド・ヒミコ

西の魔女が死んだ

・誰もしらない

・かもめ食道

おおかみこどもの雨と雪

半分以上大学の情報館。

 

 

 

第2回身内創作企画

 

 

自分の人差し指が<閉>のボタンを押す。あまりにも軽い感触に本当に押したのか不安になるが、ボタンが淡くオレンジに光るのを見て実感する。自分を乗せた箱が、ゆっくりと下へ動き始めた。

天井の電灯が作る自分の影を見ながらジーパンのポケットを探る。お目当ての紙切れはすぐ見付かり、ひしゃげたそれをもう一度確かめた。黒い紙には、白い流れるような筆記体の見出し。

 

「・・・“ロシアンルーレット”・・・」

 

駅前で拾った時は、こ洒落たゲームのチラシだと思っただけの何気ない感覚だったのだが、下に書かれた説明文を読んでその異色さに思わず目を留めた。

 

「このロシアンルーレットは、会場に用意されたドリンクの中から必ず最低1つのドリンクを選択して飲んで頂きます。お客様がお飲みになられるドリンクは任意でお選び頂き、最低数は1つですが、それ以上お飲みになられるかも自由にお選び頂けます。しかし、用意されるドリンクの中には1つだけハズレが用意して御座います。ハズレを引かずに会場を出て、受付で正解を確認されたお客様には、勝利金額として現金5万円を贈呈致します。尚、ドリンクの中にはアルコールを含むものが御座いますので、20歳以上を参加資格とさせて頂くのと同時に、会場で起こり得るアクシデントには当企画は一切の責任を負いませんので御了承ください。それでは、あなたの運に乾杯致します。・・・・・で、入場金が5000円と。」

 

息を吐く。なんて下らない・・・と思いながらも書いてある住所まで来てしまった自分がいる。ちょっとした好奇心と、手持ちが増えるかもしれない期待感に負けたのだ。ま、外れてもちょっと高いドリンク代だと思えば、そう気持ちも重くないし。そうやって受付で免許証を提示し、折り目の多い野口英世で5000円を支払った。案内にしたがってエレベーターで地下へ降りる。スマフォを見てたら圏外に変わった。

チン、と軽い音と共にドアが横に滑って消えていった。エレベーターを出た先は、様式の知識なんか全くない俺だから何がどうしてかは分からないけど、綺麗だった。アーチ型の天井に小ぶりな金のシャンデリアが掛かっている。枝を伸ばすようななめらかな金の腕の先に、イチゴ型の電球と大粒のクリスタルがころころと付いていた。白い大理石みたいな床と壁にそれが反射して、窓がない一本通路が明るく輝いている。両腕を広げて歩いても十分な広さの通路を歩く。煌びやか過ぎないシンプルで華やかな場所に感動と緊張混じりで進んでいたら、壁の一箇所に花瓶台が設えられているのに気付いた。見ると細枝を編んだ小さな籠があり、中に見覚えのある市販のミルキーな飴玉がわさっと入っている。

 

「意外と庶民的だなこりゃ」

 

思わず笑ってひとつだけ頂戴した時、突き当たりのドアが開いた。中から燕尾服を着た白髪の男が歩いてきて俺の前に立つ。身長が俺と変わらないくらいの、細く背筋が真っ直ぐのにこやかなじいちゃんだ。優しげで賢そうなじいちゃんだなぁと見ていたら、「私の顔に何か付いておりますかな?」

 

「あ!いえ!」

「それはよかった。お客様の前で失礼をしたのかと心配しました。中尾様」

 

燕尾服のじいちゃんがちっとも焦りの見えない笑顔で言う。問いかけるように俺の名前を呼んだ。

 

「あ、はい」

「入場の準備が整いました。どうぞお入り下さい」

「あっ、はい!」

 

燕尾服じいちゃんが一歩脇へずれる。俺とドアを隔てるものが何もなくなった。導かれるようにドアの前に進む。蔦の彫りこみのある、明るい茶色の綺麗な扉だ。僅かに湿った俺の右手がつややかな金のドアノブを掴み、捻った。僅かな軋みもなく扉が向こうに開く。入場だ、さぁ、いざ勝負。

会場は小学校の教室程の広さのこれまた綺麗な部屋だった。入り口を入った所で思わず足を止めて眺めてしまう。白を基調とした室内に所々金の装飾や照明がさり気なく入っている。部屋の真ん中には、木目の美しい大きな横長机が置かれている。よく見ると脚や縁に薔薇の模様が彫りこまれていた。月日を感じさせるアンティーク感が知りもしない値段を高く見せる。上には、裾にレースのあしらわれた真っ白いクロスがしわ一つなく掛けられていた。

その上にある、5つのグラス。ロシアンルーレットのドリンクだ。真っ直ぐテーブルに近付いて、ひとつづつ観察する。不純物の無い無色透明のグラスは5つすべて形が違う。一番左の、飲み口が少し広がった円柱状のオーソドックスなグラスには、濃いオレンジ色の液体が入っている。鼻を近づけるとみずみずしい柑橘の匂いがした。オレンジジュースっぽい。

その隣のグラスには細かい泡が絶えない薄い金色の液体が入っていた。全体的に背が低いグラスの殆どが持ち手と脚で、それに乗っかるようにお椀型の器が付いている。微かにアルコールの匂いがするが、ワインと同じようなフルーティーさが強い。グラスの形といいこの匂いといい、なによりこの炭酸、これはシャンパンかな。

一番風変わりなのが真ん中で、グラスというよりは、ガラス製のマグのようだった。同じくガラスのソーサーまで付いている。中は凝縮された黒い液体に満ちていて、このグラスだけ暖かそうな湯気が上っていた。一緒に、香ばしく苦い独特の香り。珈琲だ。

その隣のグラスはほぼ円形で、底にあたる場所に安定の為の平面を、飲み口にあたる場所は刃物ですっぱり切ったかのような形をしている。中には、すこし不透明な薄白い液体。見た目で判断出来ず匂うと、風邪を引いた時の事を一瞬で思い出した。おそらくスポーツ飲料系だろう。

 そして残るグラス。深みのある艶やかな赤い液体。上質な葡萄を熟成させた、世界で一番長く広く愛されてきた匂い。泡立ちも濁りもない。神の血にも喩えられる、ワインであろう液体。優雅に背の高いワイングラスに程よく注がれたそれが、一番右端に鎮座していた。

 

「・・・ふー」

 

なるほどね、ドリンクは大体把握出来た。個人的に飲めないドリンクもない。けど、はぁ、さて。

 

「一体どれがハズレなのやら・・・」

 

ドリンクには飲料という以外の共通点は無い。フルーツジュース、アルコール、茶、スポドリまである。どれかが仲間はずれという事は思い当たらないし、どれかに際立つ特徴も見当たらない。これはほんとに、皆目検討が付かないな。ロシアンルーレットとは、そういうものだけれど。

運ってわけだね、つまり。

 

「だったら」

 

ぐだぐだ悩むのは性に合わない。元々頭は良くないし、悩むより直感派だ。そうと決まれば真っ直ぐ利き手を伸ばして、グラスをひとつ持ち上げる。少し傾けると、液体が天井の照明を透かして赤い光をクロスに散らした。

 

「おまえにする。縁起が良さそうだから」

 

グラスを鼻先に近付けて嗅ぐ。値段はよく分からないが、美味そうな匂いがする。吸い込んだ息を口から出して、小さくグラスを掲げた。さーて、この一杯に5千円を取られるのか、はたまた5万のご加護が降るか。素敵で不思議な空間とゲームに、緊張と期待と興奮が高まる。さーて、では!

 

「かんぱいっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1分足らずで飲み干して一息ついた時、後ろから朗らかに名前を呼ばれた。振り向くと燕尾服じいちゃんが入り口を入ったドアの横でにこやかに立っていた。俺はグラスを置いてドアへと歩く。

 

「如何でしたかな?」

「楽しかったっす。俺、ワインにしました。普段あんま酒飲まないんで味とか分かんないんですけど、結構美味しいもんですね」

「それはよう御座いました。お水をご用意しておりますが、如何致しますかな?」

「あ、じゃあ一杯」

 

言うと、燕尾服じいちゃんはまた笑って「畏まりました」と水差しからコップに水を注いだ。部屋に入った時に気付かなかったけど、ドアを入った横に電話机程の大きさのテーブルがあり、ガラスの水差しとコップが一つ伏せられていたようだ。

注がれた水は冷たくて、アルコール後もありその心地よさに思わず飲み干す。身体がすぅーと覚めていくようだった。

 

・・・あ?

 

ガラスの割れる音を聞きながら、何も見えない一瞬が襲う。ブラックアウトした意識がどれ程の時間だったのか分からない。次に脳が感知したのは、綺麗な天井と、にこやかな燕尾服じいちゃんと、訳のわからない息苦しさだった。視界から察するに、床にひっくり返ってる。理解が追いつかずに混乱する頭が、酸素不足を訴える。慌てて肺を膨らまそうとしても、気管支が詰まったかのように呼吸ができない。口端から浅すぎる呼吸と唾液が漏れる。一体全体これは。

 

「ど、いう、こと?」

 

干乾びたような言葉がやっとのことで出た。視線を燕尾服じいちゃんに投げかける。どういうことだ?どうしてこうなった?あれ?どうして助けてくれない?え?どうして笑ってる?なんでだ?どうしてどうしてばかりを乱暴に一纏めにしたような視線。息が出来ない緊迫も相まってすがりつくように必死な眼差しを、燕尾服じいちゃんはすべて理解しているかの様にすんなり受け取っていた。

 

「ゲームオーバーで御座います中尾様」

 

晩ごはんはカレイの煮付けよ、と同じぐらいの軽さで燕尾服じいちゃんは言い放つ。鼻下に蓄えた白髭の下で、ホッホと和やかに笑っていた。俺の理解が全く何も進展していない中で、酸素不足だけが加速している。苦しさに涙が出た。滲む視界で半ば睨むように視線で問い詰めると、燕尾服じいちゃんはにこやかに喋った。

 

「 ハズレは最後に飲まれた水に御座います。それ以外の5つのドリンクは、すべて正解で御座いました。この水にはリキヒクサリンという有毒物質を溶かして御座いまして、中尾様の飲まれたコップで言いますと4分の1の量で致死量に値します。主に呼吸器官と血管に作用致しますので、主な死因としては呼吸不全が妥当かと思われます。中尾様の場合、あと2分持つかどうかといった所で御座いましょうか。

私は助けることは致しませんので、どうぞ御了承下さい。私はただ進行を任されているだけに過ぎないので御座います。お客様を会場へ導き、ゲームをさせ、最後に水を薦める。それら全てを笑顔で済ませる事だけが仕事で御座います。どうぞご理解を」

 

呼吸が限界にきている。鈍くなる思考が、それでも理解を求めていた。口の動きだけでもう一度問いかける。“これはいったいなんなんだ”。燕尾服じいちゃんは笑ったまま答えた。

 

「ロシアンルーレットに御座います。命を賭けたギャンブルゲーム。お読みになられた筈です。ドリンクの選択はお客様の任意。ハズレは必ず1つ。ハズレを引かずに会場を出て受付で正解の確認を行ったら勝利。ドリンクにはアルコールを含むものがあり、その為年齢制限がある。そして、会場で起こり得るアクシデントには当企画は一切の責任を負わない。誰も中央テーブルのグラスだけがドリンクだとは申しておりませんし、ハズレが安全なモノだとも保障しておりません。つまり、当企画はお客様に対し、何の偽りもしてはおりません。

そしてこれはロシアンルーレット観覧の企画に御座います。この会場のフロアには、至る所に隠しカメラが設置されております。生きるか死ぬかの究極、それを無自覚のままで命懸けのゲームに励むプレイヤーを楽しむ企画に御座います。今この時も、カメラの向こうの観覧フロアでお客様達がご覧になっていることでしょう。あなたが飲んだ2000円のワインとは比べ物にもならない高価なワインを片手に、楽しんでおられることでしょう。

中尾様、この世界は受け手が100%の世界に御座います。当企画が発した広告は嘘偽りがございませんが、100%の事実も記してはおりません。しかしお客様の中には、ドリンクは中央テーブルのものだけ、ハズレに安全性的問題は無い、そして、このゲームの全てはこの広告に書いてあるだけ、などの受け取りをする方が確かにいらっしゃいます。それが、この企画の狙いの一つであり、実験という名の「言葉遊び」なのです。

つまり中尾様、あなたは・・・。おや」

 

 

 

 

 

もう動かない男を荷台に乗せた燕尾服の男が、大理石の廊下を進む。荷台の車輪が重そうに転がる音が響いた。飴玉の乗った花瓶台を過ぎてエレベーターの前へ。上へ向いた矢印のボタンを押す。オレンジに光った。

エレベーターを待つ間に、動かない男のポケットのスマートフォンを探す。地下で圏外の内に処理する為だ。右ポケットに見つけたそれを引き出した。同時に、同じポケットから飴玉が一つ落ちた。赤い包み紙の、ミルキーな飴。

 

 

「また食べてもらえませんでしたねぇ」

 

 

 

 

 

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